夕暮れ時のフェルー街を、脇目もふらずに走り抜ける。目指すは一軒の家、この五年ほどの間にすっかり通いなれた道筋ではある。だが今日はひどく気が急いていた。というのも、ひと月ほど旅行に出かけると休暇を取っていたアトスから、そろそろパリに戻ると便りが届いたのだ。手紙で知らせて寄越した通りに順調に進んでいれば、今日の今ごろはもう下宿に着いているだろう。
「アトス! 戻ったのかい、きみ!」
階段を駆け上がり、扉を開くのももどかしく飛び込んだおれを、穏やかな笑顔で受け止めてくれたのは、まぎれもないアトスその人だった。
「やあ、ただいま、ダルタニャン」
ひと月ぶりの再会に、しっかりと抱擁を交わす。
以前なら、他のふたりの仲間もまた、友だちの無事を祝い、みやげをねだりに押しかけたに違いなかったけれど、今はもうふたりともこのパリにはいない。
ポルトスは、かねてより交際していたご婦人と晴れて結婚が決まり、故郷へ引っ込んでしまったし、アラミスは突然除隊届を残して姿を消してしまった。今度こそ神学の道を進むのだと息巻いていたから、今頃はどこぞの修道院にでも入っているのだろう。……もっとも奴さんがおとなしく坊さんなんぞになるとも思えないのだけれど。隊内じゃ、そのうちまた舞い戻ってくるんじゃないかと賭けの対象になっているとかいないとか。さもありなん、だ。
ともあれ、三銃士と謳われた彼らも今や離ればなれ、アトスひとりを残すのみとなってしまったのだった。
とは言え、残ったアトスとて、ただのひとりじゃない。ポルトスもアラミスも、それぞれに仲間たちから一目置かれていたが、中でもアトスという男の存在は抜きん出ていたからだ。
アトスときたら、本人はいたって控えめにしているつもりでも、黙って立っているだけでも辺りを払うというのか、周囲をはっとさせるような威厳と気品に満ちて、一介の銃士風情とはまるで違う雰囲気を纏っているのだ。派手で目立ちたがりのポルトスがよくひがんでいたのも無理からぬ話というものだろう。どこまでも品よく整った顔だち。腕だってこの上なく立つけれど、その体つきもしなやかで実にきれいなものだ。憧れや羨望に混じって、時に熱のこもったまなざしが彼に注がれているのも知っている。
ポルトスやアラミスがいなくなった寂しさはそれとして、そんなアトスを一人占めにしている今の環境は、なかなかにいい気分でもあった。
テーブルの上にはアトスお気に入りのぶどう酒と、コップがふたつ。なんの気兼ねもなく、アトスにいちばん近い特等席に腰掛ける。
「どうだった、旅行は?」
「うん、実はそのことなんだが」
きっぱりと物を言うアトスにしては珍しく、少しばかり面を伏せて言いよどんだ。
「うん?」
相槌を打って促すと、アトスは心を決めたように顔を上げ、切り出した。
「おれが、領地を放り出して出奔してきたのは、きみももうご存知の通りだが」
言いながら、美しい眉間がわずかに寄せられる。おれは黙ってうなずいてみせた。
「留守の間、叔父が領地を見てくれていたんだ。姿を消したおれのことを心配して、ほうぼうへ行方を問い合わせてもいたようだよ。……その叔父が、病気だと、トレヴィル殿から知らされてね」
「じゃあ、今回の旅行っていうのは……」
嫌な予感が胸に生まれる。まさか。
「うん、叔父のところへ行っていた」
「で、叔父さんの具合は?」
「思わしくないね。本人も覚悟しているようで、遺産の話になった。叔父にはあいにく後継ぎがいない。そこで自分の領地をおれに相続させたい、と……おれなど、ここで勝手をしていただけなのにな」
自嘲気味に息をつくアトスに、予感は大きくなっていく。
「……それで、きみはどうするつもりだい?」
「領地へ、戻ろうと思う」
「なんてことだ!」
「きみといるのが楽しくて、ついずるずると甘えてしまったけれど、いつかはそうしなけりゃならなかったんだ。これが潮時ってことだろう。ポルトスもアラミスも、自分の道を選んだ。きみだって、もう立派な副隊長だ。おれだけがいつまでもそのままではいられないさ」
「おれをひとりにするのかい」
「おれだって、きみと別れるのはつらいよ、だけど」
「どうしても?」
「もう、決めたんだ」
決意を湛えた蒼い瞳をまっすぐに向けられる。こうなったら、アトスはもう決心をひるがえしはしないだろう。
――それなら、せめて。
「……いつごろ隊を辞めるんだい」
「叔父の容態のこともあるから、もうそんなに長くはこちらにはいられないな。せいぜいあとひと月くらい」
「そうか。そうなると、のんびりはしていられないな」
おれのつぶやきを、自分に向けられたものと思ったのだろう、アトスは申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当に、急な話ですまない」
「もうすぐお別れだと思うと悲しいよ。接吻させてくれるかい、きみ」
「もちろんだとも!」
情を示されると感激しやすいアトスらしく、感極まったように腕を広げ、その胸におれを迎え入れると、自分の方から顔を寄せ、頬に口づけをよこした。
……まったくわかっていないな、やっぱり。内心軽く溜息をつく。
「ダルタニャン?」
お返しがなかなか来ないのをいぶかしんだのか、アトスが小首をかしげておれを見る。時折こうして見せる、育ちの良さをのぞかせる無防備な顔も好きなのだけど、今はそれよりも。
「そうじゃないよ」
しっかりと腰を抱き、顎をとらえて、
「おれがしたいのは、こういう接吻だよ」
アトスの形のよい唇を、自分の唇でふさぐ。一瞬驚いて退こうとするのを引き戻し、少しでも濃厚におれを感じてくれるように、強く押しつける。すこし薄めの美しい唇は、しっとりとした弾力で、吸いつくようにおれを受け止める。しばらくその心地よい感触を味わいながら、ちろりと舌で舐めてやると、アトスがぴくりと慄くのが、合わせたままの唇を通して感じられた。
わずかに開いた唇の隙間から、そっと舌を忍び込ませる。
「ん…っ…」
口内をまさぐり、舌を絡めとると、柔らかい声が、鼻にかかって漏れた。くちゅくちゅと、水音が聞こえるほどに、深く熱く、貪るように蹂躙し尽くす。
「…っは、ぁ……」
ようやく解放されると、白い滑らかな頬を上気させたアトスは、苦しげに吐息を漏らした。
「ダル…」
なにか言おうとするのを押しとどめるように、ぎゅ、と抱きしめる。
背丈はおれの方が小さいから、包み込むように、とはいかないのが悔しいところだ。くそ。
「ずっと、好きだったんだぜ。だけど、きみはおれなんかよりずっと高いところにいるように思えたし、そうでなくてもアラミスが目を光らせてたし。副隊長になって、少しは釣り合いが取れたと思ってチャンスをうかがってたのに、なんにもできないままお別れなんて、あんまりじゃないか!」
「それで、今、こんなことを?」
「うん、まあね。……あんまりきみがなにもわかっていないから、ちょっと困らせてやろう、という気持ちもあったけど」
ひどいな、と憮然とした顔になるのを、機嫌をとるように手を握って、まっすぐに覗きこむ。
「もっと言わせてもらえば、きみを抱きたい」
「……直截だね」
「ガスコンだからね、進むとなったら猪突猛進なんだ。……抱いてもいいかい」
「それは、副隊長命令かい?」
「まさか! 命令できみを手に入れられるなんて思っちゃいないよ。哀れな恋する男のお願いさ」
「恋なんて、ろくな結果になった試しがないぜ」
「まったくだ。お互いにね。でも駄目なものどうしがかけ合わさったら案外上手くいくかもしれない」
いまだ拗ねた風のアトスに、しれっと言ってやると、苦笑交じりの溜息が返された。
「……参ったな、きみには」
アトスの顔が近付く。今度はちゃんと唇に。ちゅ、と軽く触れてから、もう一度、今度は深く重ねられた。首に腕を廻されて、こちらも腰を抱きよせる。間近で見つめあった蒼い目に、悪戯っぽい光が浮かぶ。
「以前きみは、ふたりの女を、ひとりは心で、ひとりは頭で愛していると言ったが、じゃあ、おれは?」
口づけの余韻の残る、熱っぽい声でかけられた問いに、おれは、うっとりと耳許へささやいた。
「――魂で」
ダルアトは基本的にいちゃらぶにしかならない。だって原作からしていちゃいちゃしてるんだもの。
ダルが相手だったらアトスはあっさりオチそう。
一人称、「ぼく」と「おれ」で迷ったんですけど、原作(鈴木版)は第一部はほとんど「おれ」なので
それに従って「おれ」に。
最近読み返してる第二部のイメージが強くなってて、第二部だとアトスは「ぼく」で、
ダルタニャンは内心では基本「おれ」だけど、みんなといると(特にアトスの前だと)「ぼく」なんですよねー。
第一部アトスの「おれ」も、不良ぶって荒っぽくしようと努めてる感があって好きですけど。
銃士隊を辞めた順番については、原作で第一部のラストと第二部の頭で記述が食い違ってますが、
断固第一部ラストのポルトス→アラミス→アトスの順番を支持します。ダルアト的にその方がおいしい(笑)
ラ・ロシェル陥落〜国王帰還が1628年の年末、翌年ポルトス除隊、アラミスはそこから半年前後くらいかなあ。
んでアトスが1631年までダルタニャン指揮下で隊に残ってた、と。
ダルタニャン、アトスひとりじめ。副隊長忙しかったりもしただろうけど、2年間ふたりで蜜月ですよ。
思う存分いちゃいちゃするがいいさ!
しかしこの話だと、その蜜月の間もダルは手を出せずに悶々としていたことにw(出会ってからなら5年間…)
ダルはアトス相手には無体を働けないので、チャンスを窺いつつもアトスの天然に負けて失敗し続けてたんだよ。
最後の最後に開き直って突進。
アトスはお別れまでがんばってつきあってあげてください。
※書いて気付いた、アトスの叔父さん云々はいせざきるいさま@銃士倶楽部の二次小説の設定が頭に染み込んでいたようです
(ご本人了承済)
ま、トレヴィル隊長はアトスの素性は知ってるでしょう。
まがりなりにも国王陛下の近衛銃士隊に、まったく素性の知れない男を取り立てるとも思えないし。
>>おまけ
2010.01.24