消え残る月


 殊の外、月の美しい夜だった。
 如月も下旬にさしかかり、半ばほどまで欠けた月は、それでも明るく、屯所の庭に水墨画のような陰影を刻んでいる。夜ともなればまだ冷え込むものの、冬の名残の身を切るような寒さはようやく和らぐ気配を見せ、冴え冴えと冷たいばかりだった月の光もどこか柔らかく、温かみを帯びてくる、この時季の月が、土方はとりわけ好きだった。
 だが今は、やりきれなさが募るばかりで、土方は縁の障子に身をもたせたまま眼を閉じた。知らず、嘆息が漏れた。
(俺の春の月は、もうすぐ消える)
 山南が病であることは、本人の口から聞かされていた。治らぬ病だ。半年か、一年か、あるいはもっと早くか。遠からず訪れることはわかっていたその時が、間近に迫っている。
 覚悟はできているはずだった。否、それは覚悟というような明確なものではなかったかもしれない。理不尽だと憤り、ただ嘆くには、死はあまりに日常になりすぎていた。それでも、山南がいなくなる、その事実は、身体の一部をもぎ取られるような、痛みにも似た喪失感を土方にもたらしていた。
 勝海舟の肚の内。この半年、死の足音を聞きながら、山南はほとんどそれだけを考え続けてきたと言っていい。
 勝の肚の内を読んでほしいと山南に託したのは土方だったが、山南にとっては、命の遣いどころを得たというところがあったのだろう。
 力のかぎり生きたかった。
 病のことを打ち明けた時、山南はそう言った。その声も表情も、どこまでも静かなもので、だがその静けさの中に、泣きたくなるほどの激しさを秘めていた。
 山南は、その思いを満たすに足るだけのものを、勝の中に見たのだ。勝と向かい合う山南を、土方は直接には知らない。ただ、日々静謐さを増していく佇まいの内側で、山南の命が恐ろしく研ぎ澄まされていくのを、痛いほどに感じていた。
 時に鬼気さえ孕むその姿は、ことさらに命を削っているようで、もうやめさせたいと言った昨夜の言葉は土方の本音ではあったが、どこかに、山南の全身全霊を向けられる勝に対する嫉妬めいた感情もあったのかもしれない。
 勝手な感情だとはわかっている。勝を通して山南が探ろうとしていたのは、この時勢の中で、新選組が、そして土方が生きていくための道だった。
 勝に引き合わせたその時からもう山南は、それが己の命を懸けるべき最後の仕事と思い定めていたのだ。土方から預けられたそれを再び土方の手に返した今、山南は自ら死の時を定め、そこに向かおうとしている。
 あるいは、勝の肚を見切る、その一心が、山南の消えてゆこうとする命の灯を留めていたのか。すべてを語り終えた山南の眼から、それまで死相を押し隠していた強い光が急激に薄れていくのを、土方は確かに見た。
 今朝見かけた山南は、昨夜の憔悴ぶりが嘘のようにごく普通に起きていた。だがそれが病状の回復によるものではないことは、土方にははっきりとわかった。遠くを見るようなその眼差しには燃える炎の激しさはもはやなく、ただ透徹した光だけを湛えていた。何かを越えてしまった。そんな感じがした。
 そのまま土方とは視線を交わすこともなく、山南は伊東甲子太郎の部屋へ入っていった。
 二人がどんな話をしたのかは知らない。知る必要もないことだった。伊東の肚はすでに知れている。伊東を追い込むための仕上げにかかった、そういうことなのだ。
 己の選んだ死に方で、伊東一派を抑えられると山南は言っていた。山南の死によって、伊東たちは孤立し、いずれ隊から出て行かざるを得なくなる。そうなった時、土方は伊東を斬るだろう。いわば伊東を道連れに、山南は死んでゆく。
 山南が選んだ、死に方。それがどんなものなのか見えぬまま、苦い思いばかりが腹の底で渦巻いている。それは勝に対して抱いた眩しいような痛みとは、まるで違うものだった。新選組を己のものにしようと目論み、山南を抱き込んだつもりで、その実自分が追いつめられていることに気付かぬ伊東はいっそ滑稽ですらあったが、そう思えばなおさら、たとえ燃えかすのような命なのだとしても、山南の最期を、伊東などにくれてやるのは腹立たしかった。
 いや、そもそも初めから、山南は伊東の参入に危惧を示していたのだ。それを承知の上で、受け入れてみたいと言ったのは土方自身だった。
 伊東のことがなければ、もっと多くのことを、山南と語り合うこともできたのだろうか。
 ふと、そんなことを考えた。ほんとうは、これから先の道をこそ、山南と語り合いたかった。
 だがそれも、無意味な繰言でしかない。やり場のない思いを押さえ込むように、拳を握りしめた時だった。
 瞼を通して感じていた月明かりがかすかに翳った気がして、土方は眼を開けた。月を背に、佇む人影がひとつ。
「…山南」
 夜着姿の、山南だった。
「ずいぶんと油断しているではないか。寝首を掻かれても知らんぞ」
 にやり、と、隊士たちの前ではついぞ見せたことのないような人の悪い笑みを浮かべて言うのに、馬鹿なことを、と笑って返そうとした声は、だが、喉の奥で絡まった。
 ――こうして目の前にいてさえ、この、存在の希薄さは、なんだ。
 ぞっと、肺腑が冷えた。
 言葉を失ったまま、自分を凝視している土方に、山南が訝しげに小さく首を傾げる。それさえどこか現実味を欠いて、そのまま月の光に溶けてでもしまいそうだった。
「とにかく部屋に入れ」
 山南から視線を引き剥がすように眼を背け、促す。これ以上、月と山南とを、並べて見ていたくはなかった。
「そのままでは、冷える」
 言い足した言葉が、言い訳じみた。


「何かあったのか」
 山南を部屋に招き入れ、障子を閉めると、土方は山南に向き直った。
 伊東の加入以来、土方と山南は対立しているものと隊内では思われている。そう思わせるよう、仕向けてきたのだ。意図的にか、あるいは余程のことがない限り、互いの部屋を訪れることも避けていた。
 言外に緊張の色を滲ませた土方に、しかし、山南はいささかばつの悪そうな表情を浮かべた。
「お前と飲もうと思ってな。厨房から少しばかり失敬してきたのだ」
 銚子と盃を差し出され、土方は少し戸惑った。
 病は、山南の胃の腑を冒しているらしい。食事も苦痛なのだろう、人目を避けるため、料理人の久兵衛に直接自室へ運ばせるようにしていたが、それも近頃ではほとんど手もつけていないのだと、何かをこらえるような顔をして、久兵衛がぽつりと漏らしたことがある。酒など飲んだところで、今の山南には美味いと思えるようなものではないはずだった。
 別れの盃、ということか。
 山南は、ただ微笑んでいる。土方は何も言わず、盃を受け取った。
 ぽつりぽつりと語り合いながら酌み交わす間、勝の名も、伊東の名も、互いに口にはしなかった。
 試衛館での馬鹿騒ぎや、京への道中の騒動や、京に着いてからの右往左往。今となっては笑い話のような、懐かしく、優しい思い出話ばかりを肴に、半刻ほど飲んだだろうか。
 するり、と山南の身体が動いた。その拍子に、中身のほとんどなくなった銚子が倒れるのが視界の端に映った――と思った時には、土方の視界は別のものに覆われていた。
 霞むほどの至近に、伏せられた睫毛が映っている。わずかに強くなった酒の匂いは、自分の手にしている盃のものではない。そっと重ねられた唇に残る酒の味。
 柔らかな感触が、ゆっくりと離れていく。伏せていた眼が開かれ、まっすぐに土方を見た。
「油断大敵、と言っただろう」
 悪戯めいた口調とは裏腹に、その眼は胸を衝くような真剣さを湛えていた。
 ふいに、泣きたいような気持ちになって、土方は、山南の肩口に顔を埋め、しがみつくように抱きしめた。
 これまでにも身体を重ねたことはある。江戸にいた頃からの関係だった。土方が求めると、子供の悪戯を窘めるように苦笑しながら、大抵は土方の好きにさせてくれたものだ。だが、山南から求めてくることなど、ほとんどなかった。
 最後なのだ。そう、思った。
「らしくないな、土方」
「お互いにな」 
 あやすように背中を撫でる山南の声が笑みを含んでいるのを感じ、土方も少し微笑った。
 記憶より数段細くなった首筋に、ためらいがちに唇を寄せた。端から見ていてもわかるほどに肉の落ちた身体は、こうして触れてしまえば、なおごまかしようもなく痛々しい。そんな土方の逡巡を見透かしたように、山南が耳元で囁いた。
 ひじかた、と名を呼んだその声は、常にはない艶を帯びている。こんな声を、勝も伊東も知るまいと、かすかな優越感を覚えた己に内心で嗤いながら、誘われるままに口付けて、その痩せた身体を組み敷いた。
 互いの呼吸を奪い合うように、深く舌を絡め、唇を吸う。何度も角度を変えて重ねるうちに、山南が土方の頬に触れてきた。頬を滑り、耳を嬲るその指先は酷く色めいて、じわりと土方の熱を煽った。
 熱い息をつきながら唇を離して見下ろせば、山南は息苦しさからか、少し潤んだ眼をしている。その瞼にそっと唇を落とす。夜着の襟元をはだけさせ、薄くなった胸に手を這わせると、ぴくりと瞼が震えた。こめかみ、頬、耳、首筋。山南を記憶に刻みこむように、ゆっくりと辿った。
 手のひらで突起を擦るように胸元を撫で回す。指先で弄り、引っ掻くように責めると、小さく啼いて喉を反らせた。無防備に晒された喉元を強く吸い、そのまま鎖骨から胸元へと舌を這わせながら、空いている手で裾を割り、山南の脚の間に身体を割り込ませた。するりと内股を撫で上げるのに合わせて、胸の突起をちろりと舐める。土方に弄られて硬さを増し、仄かに色づいたそれは白い肌に映えて艶めかしく、さらなる欲を誘った。
 下帯を解き、すでに熱を持ちはじめている山南のものに指を絡めた。直に触れられ、土方の身体の下で山南が背を撓らせた。腕を押し当てても抑えきれない喘ぎが、熱い吐息となって山南の口から漏れる。
 ふと、脇腹から腰の辺りを滑っていた手に、引き攣れたような傷痕が触れた。他所の皮膚より敏感になっているのか、つ、と指でなぞると、山南の身体が大きく反応した。
 一時は山南を失うのかと思ったほどの怪我。しかし今、山南の命を奪おうとしているのは、まるで別のものなのだ。
 特に意識したわけではなかった。だが、山南の身体をまさぐっていた土方の手は、それを探り当てることとなった。滑らかな肌の下に、硬くしこる、明らかに異質な感触。
(これが)
 こんなものが、山南を殺すのか。
 こんなできものなど、いっそ、抉り取ってしまえれば。
 無意識に爪を立てていたらしい。力を込めた手に、山南の手が重ねられて、土方ははっと我に返った。頭上で山南が笑った気配がして、顔を上げた。
 上気した頬に浮かんだ、陶然としたその笑みに、瞬間、ぞくりと脳裏をよぎる予感があった。
 死に方。
 頭の中に響くその言葉を追いやるように、土方は山南を追い上げる手を早めた。次第に浅く、荒くなっていく呼吸の間に切なげな声が混じり、一際強く扱き上げて促すと、息を詰めて山南が達した。散った白濁が太腿を伝って後ろを濡らす、その感覚にもひくりと身を震わせる山南の姿態に土方がどくりと脈打った。慣らすのももどかしく、後ろにあてがい、貫く。山南が、声にならない短い悲鳴をあげた。苦しげなその喘ぎを吸い取るように、山南の唇を塞いだ。緩く律動を繰り返すうち、やがてそれも甘い響きを帯びはじめる。
 繋がったままきつく抱き合い、口腔を貪り合う。汗と自身の吐き出したものとで濡れた脚を抱え上げ、より深く山南の中に己を埋めた。何度も、激しく突き上げる。
 今だけは。
 痛みも、苦しみも、死も。何もかも、忘れてしまえばいい。それだけを考えた。



 翌朝、土方が目を覚ました時には、すでにそこに山南の姿はなかった。
 昨夜の熱が夢のように、妙にがらんと冷たい部屋は、しかしどこかで予感していた光景で、近藤の部屋から書き置きが見つかり、山南が屯所を出て行ったと分かったときにも、土方には驚きも焦りもなく、ただひとつの確信があった。
(それが、お前の選んだ死に方か)
 昨夜の山南の、重ねられた手の感触が蘇る。握り込んだ手のひらに、うっすらと血が滲んだ。
 騒ぎを聞きつけた隊士たちが大広間に集まっている。その中に、伊東の姿もあった。
 隊士たちの前で、土方は山南を脱走と断じた。追っ手はすでに沖田に命じてある。それが何を意味するか、新選組にいる者なら分かるはずだった。だが敢えて、伊東に向かい、はっきりとそれを言葉にして告げた。切腹。口にした瞬間、風穴が開いたように、冷たいものが胸を貫いた。
 伊東は明らかに動揺している。寒々とした気分のままに、もっと追いつめてやりたい衝動に駆られた。
「山南さんは、総長じゃないか」
 だからこそ、意味があるのだ。食い下がろうとする伊東を冷ややかに見返す。
「誰であろうと同じだ。俺であろうと、君であろうと」
 喉元に、見えない刃を突きつける。伊東の顔から血の気が引いていくのがわかった。
 遠ざかる馬蹄の音。伊東が息を飲んだ。沖田が山南の追捕に向かったのだ。蒼褪めた顔のまま、伊東は広間を出て行った。
 ほどなくして、使いの者から知らせを受けた近藤が妾宅から帰ってきた。信じられぬという態の近藤に、土方は山南の意志を伝えた。山南の病も、伊東の思惑も、それほど切迫した事態とは考えていなかったらしい近藤は、衝撃に耐えるように俯いていたが、やがて、自分が切腹を言い渡す、という言葉で、山南の覚悟を受け入れた。
 夜になって、眠れぬ時間を持て余し、ひとり自室に籠っていると、久兵衛が酒と酒肴を携えて現れた。計ったような間の良さに、土方は内心苦笑しながら迎え入れた。
 山南と沖田も、今夜はこうして二人飲んでいるのだろう、と久兵衛が言った。そうであればいい、と土方も思った。
 山南にとっても、土方にとっても、弟のようなものだった。いまは、労咳を病んでいる。追っ手を命じたとき、沖田には何も説明はしなかった。沖田と山南。その身に死病を抱えた者同士、土方が何かを語るより、もっと別の、通じ合うものがあると思えた。
 土方は、盃に酒を注ぎ足してくる久兵衛に眼を向けた。
 この男も、妙な男ではある。隊士たちでさえ恐れて滅多に近付こうとしない土方の部屋に、こうして平気な顔で訪れてくる。初めて顔を合わせたときも、まるで怖じける風もなく土方に反論してきたのだ。
 思えば、最初に山南の病に気付いていたのも久兵衛だった。もしかしたら、昨夜、山南がここに来たことも、この男は気付いているのかもしれない。
 どこか見透かされているような気分があったが、不思議と不快ではなかった。ただ黙って酌み交わしていると、自分自身と向き合っているような感覚に土方は襲われた。
 酒が尽き、久兵衛が、膳を持って退がっていった。
 胸に穴が開いたようなやりきれなさが、消えたわけではなかった。だが、奇妙なほど、心は静かになっていた。
 それから夜が明けるまで、土方は山南の言い残したことを思い返した。土方が見るべき、夢。いまだ朧げなそれは、だが、山南の命そのものだった。
 その夜は、長かったのか短かったのか。気がつけば、外はうっすらと明るくなっている。
(山南が、戻ってくる)
 ここに、戻ってくるのだ。
 天には、夜が明けてなお消え残る、有明の月。
『俺は、どこへも行かんよ、土方』
 山南の声が聞こえた気がした。


 隊士たちを集めた大広間に、沖田に伴われた山南が姿を現した。沖田は、まだどこか計りかねた顔で、土方をじっと見つめてきた。
 張り詰めた空気の中、近藤が切腹を言い渡し、山南が諾と頷く。近藤は、伊東に口を挟ませることさえしなかった。それが、近藤なりの、山南の思いに対する精一杯の答えだったのだろう。あとは、土方自身が見届けるだけだった。土方は沖田に介錯を命じると、山南の支度が整うのを待った。
 やがて報告に来た沖田は、先刻よりもしっかりした顔つきをしていた。山南の自室へ入ると、白装束に身を包んだ山南が、土方を見上げて穏やかに笑みを浮かべた。襟の合わせ目の辺りに、うっすらと残る赤い痕がちらりと覗いた。
「さらば」
 土方が短く告げると、山南もまた静かに応えた。
「先に行く、土方」
 脇差に懐紙を巻き、腹に突き立てた。一文字に腹を裂いた刃を握り直し、上へ掻き上げる。凄惨な光景の中、しかし山南の表情に苦痛はなく、どこかうっとりと上気した顔に、土方は先夜の続きのまま山南を抱いているような錯覚を覚えた。
 山南も、そうなのだろうか。
 山南の眼は、まっすぐに土方を捉えている。土方もまた、逸らすことなく見つめ続けた。全てが通じている。そう思えた。
(ならば、俺に抱かれたまま逝けばいい)
 脇差が、水月の辺りにまで達する。忌々しい病を断ち割って、いっそ清々しいほどに美しく、山南が土方に微笑んだ。
 受け止めた。
 万感の思いを込めて見つめ返し、頷く。
 全て、受け止めた。
 その身は今、消えゆくとしても、
(俺の中に、お前は残る)
 沖田の気合いとともに、銀光が一筋疾った。

 

 

 


最後にすこしだけ土方さんに甘えに来た山南さん。


切腹時の山南さんの描写をうっかり色っぽいと思ってしまって考え始めた話。
(「上気した顔」ってのにはやはりこう、クるものが…ごめんなさい山南さん)
この山南さんは土方さんにしか許してない方向で。
(「魔性の男」とかとはパラレルです(笑))
原作の章タイトルが「散る花」で伊東さんの弔歌ネタっぽいので、
ちょっと土南ちっくに対抗してみたり。

 

背景素材:創天(http://sou-ten.com/)