「相変わらずの、いい趣味だな」 黒楼が投げるように海へ呟いた言葉に、一匹の犬がわざとらしい甘えた鳴き声を漏らした。犬は砂浜に座り込む黒楼の背に徐々に近づきつつも、静かに荒々しい不気味な海からは極力距離をおきたいらしく、荒い砂をじゃりじゃりと慎重に踏みしめている。 「いやだなぁ、犬も食わないなんとやらを食いに来てただけだよ」 甘えた鳴き声がピタリと止むと同時に、紫雨の声が犬の喉元から晴れ上がった空へ小さく響いた。からかいを多分に含んだ言葉に、砂の上に投げ出された黒楼の指が虫のように小さく震える。犬は大層ご機嫌といった様子で、黒楼の斜め後ろに伏せった。一人の人間と一匹の犬の前には、空の青さとはまた違う、深く沈みこむように青くも全てを暴いてしまうほどに透き通っている海が、気が遠くなるほどに広がっている。 「不器用もほどほどにしないといけないね」 ぶるりと小さな体を震わせながら犬が一つしみじみと呟くと、黒楼は犬に見えてはいない顔を歪めた。その表情は、全てのことに疲れてしまったのだと言いたげな苦々しく憂鬱なものだった。 「君たちは、間違いなくそろそろオッサンといわれるに相応しくなるというのに、なんでこんなにも思春期めいているのか、これは今世紀最大の謎かもしれないね」 犬の、もとい紫雨のおしゃべりは止むことを知らないかのように続いていく。黒楼が臼のように押し黙っているのをいいことに、加熱され素早さを増す紫雨の舌の動きは、最早誰にも止められぬ奇妙な熱気を帯び始めていた。 「必死になってるね」 「何がだ」 ようやく口を開いた黒楼の声はいつものように覇気がなく、されど染み渡るように深いものだった。紫雨はその声がやっとのことで漏らした拗ねたような言葉を、軽く笑い飛ばして鼻を鳴らした。 「必死に、いとおしまないように、愛さないようにしてるからさ。さっきだって、二人のうちどっちかでも素直に、ほんの少しだけ素直になれば、全て、万事、一切が上手くいっただろうにさ」 君たちはなんだって必死にそれを回避するのか、と紫雨は馬鹿にしたように問い、犬の小さな体を震わせた。さっきだって、と紫雨が言った10分ほど前のことを思い起こした黒楼は、小さく舌打ちを落とし、いつも通りの喧嘩を、いつも通りの相手としただけのことだ、何を思い悩むことがあるものかと自身に言い聞かせた。 どういう経緯でかを思い起こすのも馬鹿らしい道のりを辿り、膝をあの男に貸したのはほんの気まぐれで、名前を呼んでしまった失態も、いわゆる魔がさしたというもので、そしてあの男が奇妙なほど、それは腹の奥底から寒いほどの恐怖を、いや恐怖に似たものを込み上げさせるような顔で自分を見ていたのも、何かの偶然にすぎなかったのだから、今更何を後悔し思い悩む必要があるだろうか。目を覚まして飛び込んできた男の柔らかな顔に、涙を流すかわりに、思い描ける全ての罵詈雑言を吐きつけてやったことを、今更悔やんだところで、森に帰ってしまったあの背中が戻ってくるわけではないのだ。 「君は、あれを神聖なる白蛇だとでも思ってるの?あれは単なる変わり者だよ。そろそろオッサンになりかけた、強烈な毒ガスを投下する癖を持った、そんなただのおかしなふんどし野郎だ」 「言われるまでもねぇよ」 不愉快に獣じみた犬の息遣いと混ざり合った紫雨の声を、遮るかのように黒楼の声が重なる。やや大きく、はっきりと発音された音に、海が一瞬だけ大きく揺れた。人間の本能か犬の本能か、その、ほんの一瞬の不可思議な海の動きに犬は立ち上がって、四肢に緊張しきった固い力を込め始めた。 「いいたいことは、それでおしめぇか?」 絞るように出された黒楼の声を聞いた犬は、やはりわざとらしくも喧しい声で「ワン!」と一つ吠え、目にもとまらぬ速さで砂を掻き揚げながら走り去った。首だけで振り返り、その様子をじっくり眺めていた黒楼は、ふん、と鼻を鳴らしてから揺らぐ海に視線を戻し、大きく息を吸った。
「あんまりね、黒楼ちゃん苛めないであげてくれる?しがない男なんだから」 砂浜を必死に走りきった犬を迎え入れたのは、べっとりと不愉快な、腐って黒ずんでしまった部分に溜まる水のように気味悪く不可解な、そんな水気を含んだ声だった。犬が恐る恐る、不自由そうに首を動かす。まるで悪戯がばれてしまわないかを焦る子どものようにきょろきょろと、忙しなく動く犬の瞳は、ついに太い木の枝の上に声の主、橙次の姿を捕らえた。釣り上がった目を不自然に歪ませた顔は、仮面のように不気味な笑みを浮かべている。そして、歪んだその目は、既にありとあらゆる情欲を飲み尽くした類の嫉妬に濡れ、這うような、刺すような、裂くような視線を、犬と、その奥に見え隠れする紫雨の足に絡ませていた。 (とんだ毒蛇さまもいたもんだ) がさりと木の葉を揺らしながら、紫雨は全身を深緑の葉に隠した。どうにかして、強力すぎる毒を孕んだ橙次の視線を遮りたかったのだ。しかしどうやら無駄だったようで、人間離れした強烈な視線は紫雨の精神に益々迫ってきた。葉の隙間から黄金色に輝く瞳に覗き込まれているような、葉を溶かしつくして睨まれているような恐ろしい視線に、紫雨の背には冷たい汗が一筋伝った。すうっと見えない手に撫でられたようなこの感覚に、紫雨は息をゆっくりと吐き出しながら笑い、静かに目を閉じて、この森にいる全ての動物たちに祈りを捧げることしかできなかった。 |