悟10歳のエピソードについて考えてみたあれこれ。
まず、原作での話の挿入の流れでわかり辛くなってるけど、「法力僧たちの間で有名なハナシ」=流が知ってる情報は
「妹を助けようとした悟が潜在能力を暴走させてバケモノを一撃で倒した」ところまで、と考えていいよね?
純の告白を聞くまで流は悟の「あいつをおびえさせるものか」という言葉とこの事件とが結びついていなかったようだし。
光覇明宗の中でこの話が広まったのは最初のうちは「力の暴走」の部分が強調されて悟の力の異常さに対する陰口みたいなところがあったのが、
だんだん悟の実力と人格が認められていくうちに、生まれ持っての才能とか「妹のため」というのがクローズアップされてきたりしたのかもと想像。
この話を潮にしようとした流を純が強い剣幕で制止しようとしていますが、これまでも、純にとっては最終的に自分が兄を傷つけてしまった苦い過去なのに
美談的に広まっていくのを聞いてるのは辛かったんだろうなあ。
そしてそれは悟にしても同じで、噂がふと耳に入るたびに純の叫びとそうさせてしまった自分への悔恨とがフラッシュバックして傷ついてたんだろうなあと思います。
で、本題。
この悟の力ってのは実際どの程度に位置するものなのか。「有名なハナシ」として広まるほどすごいことなのか?
――というところを検証してみたいと思います。
流曰く、相手は「低級な古木の変化」。
この表現が微妙で。「山の“神”」とは名ばかりの、ごろつき的なバケモノだった、ということなんだけど、じゃあ実はさほど強くはないのか?っていう印象がw
だけど低級=弱い、というわけでもないんだよね。
例えば山魚なんかどう考えたって格の高い妖怪じゃなさそうだけど強いことは強い(あいつは特に性質が厄介だっていうのもあるけど)。
低級、というのは存在が原始的、という意味なのだろうと定義してみる。遠野の妖怪たちとか西のとか、
知能・理性があって妖怪なりの秩序を持ってる連中とは別ラインの存在。
本能だけで力ぶちまけて襲ってくる分、タチが悪い。
そして人に危害を加える=法力僧が退治に行く妖はこの辺の連中が多いのでは。「伝承」で紫暮さんが退治してたのも「針の変化」だったし。
では一方で、そういった妖に対する法力僧の力はどんなものなのか。
件の「針の変化」に対して、紫暮は千宝輪で攻撃しその身を断ち割りながら最終的には「封じて新たに結界を張っ」ている。
よく読むと外伝の化け猫のときも、退散させてはいるけれども滅ぼしてはいない(たぶんもう一つの壺も改めて封じたものと思われる)。
とらが「バケモノを本当に殺すにはぐちゃぐちゃにすりつぶしでもしなけりゃ死なない、
それを一撃でやっちまうから獣の槍は厄介なんだ」というようなことを言っているシーンもあった
(……のを確認しようと思ったんだけどすぐに見つけられなかった……でもたしかにどこかで言っていたと思う)のも考えると、
法力僧の妖退治は「封じる」のが基本で、滅殺するとなると相当な力を要するのではないか。
光覇明宗の法術を見ると、縛呪とか朏の陣とか、まず結界で縛る、動きを封じるというのが基本にあって、
あとは武法具で力を集中・増幅しての攻撃、という感じだけどそれも一撃必殺とはなかなかいかないようだ
(……というか法力で妖を倒してる(消滅させてる)描写が思いのほか浮かばなかった……対婢妖とか黒炎とか、あとは凶羅が川の妖ぶっ倒してたか)。
そもそも朏の陣みたいな複数人での使用が前提の術が基本戦術になってるあたり、実は単独で妖に対峙できる法力僧って
限られてるんじゃとも思えてきた……なんか秋方たち(モブ僧の中ではそこそこ使えるレベルか?)がひとりで妖倒せる気がしないw
そう考えると、後先考えない全力解放ゆえに出力過剰のオーバーキル状態になっちゃってるとはいえ、
訓練もしていない10歳の子供が、そこそこのバケモノを一撃で粉砕した、というだけでも
一般的な法力僧からしたら驚嘆に値する規格外の才能ということになるのだろうと推察できる。
……そりゃあ語り草にもなるわ。
余談。
あのときの悟の力は「法力」の前段階の、素の気力で、この気力を術の詠唱や法具を媒介に集中・精練することで「法力」となる。
血袴戦での純の念がわかりやすいかも。最初に無意識に放出してた気力と、最後の潔斎して放った念と。
威颶離は念を多くの人に通すことでその体内の力の共鳴を利用して増幅する技、ということだけど、
ここでいう「体の内の力」っていうのがこの気力にあたるもので、うしとら世界では多かれ少なかれ誰でも持っているもの、
そしてその力を高め、意識して使えるようにするのが法力僧の修行なのだろうと考えています。
ついでに、この「気力」が妬みや憎しみなんかで負の方向に強くなりすぎると妖気になって鬼になる……なんてのはどうでしょう
2015.09.14