「――じゃあ、楽俊も元気で」 そう締め括り、声は止んだ。 うん、と楽俊が目を細めて微笑うと、それまで女の声を紡いでいた鳥は、きゅる、と鳴いて首を傾げた。毎度の事ながら、いかにも鳥らしいその仕種が、却って不思議な気がする。人の声を運ぶ鳥。それは、今は慶国の王となった友人からの便りだった。新たに言葉を吹き込むまでは、撫でてやれば何度でも、同じ言葉を語ってくれる。もう一度彼女の声を聴こうと手を伸ばした、ちょうどその時。 「ほう、陽子からか」 突然の男の声に顔を上げてみれば、いつからいたのか、そこには大小二つの影。 「延王、延台輔」 思わず声が高くなったのを、しいっ、と窘めたのは小さい方――延麒六太だ。 「邪魔しちまったか。悪かったな」 「いえ、そんなことは」 「それにしては随分と慌てていたようだが。人に聴かれて困るような話でもしていたのか、ん?」 にやり、と笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる延王に、楽俊はとんでもない、と頭を振った。 「いきなり入って来られれば誰だって驚きますよ」 巧国からの荒民も同様の自分が、大学の入学試験をを受けられるよう取り計らってくれたのは他ならぬこの二人だ。こうして大学に入った後も、何かと気に掛けてくれる。それはありがたいことだし感謝は尽きないが、突然入ってこられるのはやはり心臓に悪い。 とは言うものの、一介の学生の元に王と台輔が訪ねてくる、という、本来ならば異常とも言える状況にはすっかり馴染んでしまっていることに、内心苦笑する。それも明るく人懐こい延麒と、底が窺えないながらも懐の深さは疑うところのない延王、二人の人柄ゆえだろう。彼らの知遇を得られたことは、決して損得でなしに、嬉しく、また誇らしいことだと思う。 「お座りになって下さい、今お茶でも淹れますから」 「そんな気ぃ使うこたねえって。それより、陽子は何だって?」 「これといって特別なことは。宮中でも信頼できる相手が増えたようで、その人たちのこととか…あとは景台輔への愚痴くらいかなぁ」 陽子の、いかにもうんざりした口調を思い出してくすりと笑いながら、もちろん、と楽俊は続けた。 「まだまだ大変なことはたくさんあるんでしょうけど」 官吏の大異動を行って、外部からの人材を多く登用したと聞いた。長く混乱の続いた慶国において、毅然とした新王の態度は、女王に対する不安を払拭し、人々の目に心強く映るだろうが、以前からの官吏の中には疎外感を抱く者もいるだろうし、彼女を御し易しと見ていた者たちは焦るだろう。陽子が王として強くなればそれだけ、不平分子も過激になる。官が陽子をなめてかかっていた以前より、これからの方がもっと大変なのかもしれなかった。 「まあその辺のことは、あんまりおいらには言ってこないんで…」 「そりゃあ、お前も同じだろ」 楽俊は半獣だ。彼らは昔から何かと差別の対象になってきた。雁では制度の上での差別こそないものの、実際に半獣が社会的な地位を得ることを快く思わぬ風潮がいまだにある。官僚の養成機関とも言うべき大学という場で、楽俊もまた偏見に満ちた視線に晒されていることは想像に難くないが、彼はそれをわざわざ陽子に知らせることをしない。それ故に、延麒は金波宮を訪れる度、こっそり陽子に楽俊の様子を尋ねられるのだが。 「…おいらは陽子に寄りかかりたいわけじゃねえです」 延麒の苦笑混じりの視線を受けて、楽俊は答えた。思いのほか硬い声が出て、慌てて言い足す。 「人に愚痴ってどうなるもんでもねえですし。それに、おいらのこと受け入れてくれる奴もいます。嫌な事を報告しあうより、良かったことを伝えた方が嬉しいし、頑張ろうって気になるじゃないですか。 陽子が頑張ってるって聞けば、おいらも負けちゃいけねえって、元気になります。陽子もそうなんじゃないかと思うんです。陽子が自分の足で立とうとしているんなら、せめてその気持ちを挫かないように、おいらもしっかりと立っていたいんです。 もっとも実際のとこ、宮中のことじゃおいらにはどうしてやることもできねえんですけど…」 それを面白そうに見ていた延王が、ふむ、と唸った。 「いとしいいとしいというとり、か」 「…なんです?」 耳慣れない音だった。蓬莱の言葉だろうか。 「ああ、この鳥の名がな。お前達に誂えたようだと思ってな」 「名前ぇ?――ああ、なるほど。…確かに」 延麒は少し考えて納得したようだが、楽俊にはさっぱりわからない。しかし主従はお構いなし、むしろそんな楽俊を楽しげに眺めるばかり。 「やはり今日はこれで退散するか。馬に蹴られたくはないからな」 「おれが蹴ってやろうか」 「馬鹿に蹴られるのはもっとごめんだ。…楽俊、せっかくの恋文だ、たまには気の利いた科白の一つも贈ってやれ。『文張』の名が泣くぞ」 言って、入ってきたと同じ窓から身を躍らせる。 天駆ける獣の背に跨り、じゃあな、とひらひら手を振りながら、夜闇の中に溶けていく二人を、楽俊はただ呆然と見送るしかなかった。
嵐の去った部屋で、我に返った楽俊は、書卓の上で相変わらず首を傾げている鳥を振り返った。 「いとしいいとしいというとり…っていうのか、お前」 言いながら、鳥を見つめる黒い瞳が、微かに翳る。 楽俊は、この鳥の名前すら知らない。その事実が、ちくりと胸を刺す。 ――それほどに、住む世界が違うのだと。 そもそもこれは貴人の伝言に使われる鳥――しかも、延王・延麒から漏れ聞いたところによれば、その所有者である王にしか使えないのだという。陽子が紛れもない王であればこそ、そんな鳥が楽俊のもとへやって来る。餌は銀、延王の援助がなければ、楽俊自身にはこの鳥を養うことさえできはしない。 壊れ物を扱うように、楽俊はそっと羽を撫で、再び流れ出す声に耳を傾けた。 凛とした声は、彼女の勁い瞳を思い起こさせる。 『私と楽俊の間には、たかだか二歩の距離しかない』 ――かつて、その翠の光とともに真っ直ぐに自分に向けられた言葉が、楽俊の耳に蘇り、切なさを残した瞳に微笑が浮かんだ。 彼女ほどにきっぱりと、身分も何も関係ないと言い切ることは、それでもやはり楽俊にはできない。陽子は王だ。彼女が好むと好まざるとに関わらず、その身は多くの責任と制約に縛られる。 「おいらには、やっぱりまだ三歩だな」 慶と雁、雲上と地上。あの時とは比べようもなく拡がってしまった距離。この鳥は、それでもなお、変わらぬ二歩の距離に立とうとする陽子の心だ。だが、だからこそ、延王や延麒や、陽子自身の厚意で保たれている今の関係に、ただ甘えることはしたくない。あと一歩、それは楽俊自身が踏み出さなければならないのだ。 彼女が天の高みに在らなければならないのなら、己がその傍に立つに相応しい人間になればいい。 陽子が王であること。彼女にとって、それは楽俊が半獣であるのと同様に、彼女を構成する一部であるに過ぎないのだろう。なればこそ、その肩に乗ったものごと、彼女を受け止められる人間になりたいと思う。そのための努力をすることが、今の楽俊には許されている。 彼の人の言葉を語り終えた鳥に、銀の粒を与える。もう一度聴き返してから、名残惜しげに自分の腕に止まらせた。 恋文、と言った延王の、人の悪い笑みが頭をかすめて、楽俊は苦笑する。 (見透かされてる、んだろうなぁ…) 今はまだ、口には出せない。――口に出してはいけないと、頑なに、心に定めている。 それは、楽俊なりの、男の矜持とも言えるものなのかもしれなかった。 どれほど見上げても、この目には届かない遥かな高み。けれど、いつか必ず、自分の力で辿り着いてみせるから。――そうでなければ、きっと自分は、彼女の傍らに在ることに納得できない。 延王のことだ、そんな楽俊の思惑などお見通しなのだろう。その上でさらりと叩かれた軽口を、己への叱咤激励と受け止めて、楽俊は顔を上げ、穏やかに鳥に語りかけはじめた。 いつか、必ず。 それまでは、彼女の勁さを挫かぬよう、己の心が挫けぬよう、この精一杯の強がりを、恋文の代わりに届けよう。 ――愛しい愛しい、貴女へ。 |