赤楽


「楽、ですか」 
 元号に、「楽」という字を入れたい。彼の主――景王陽子は、真剣な眼差しでそう言った。
「ああ。…だめだろうか」
「だめ、ということはありませんが。…それはひょっとして、楽俊殿の名からとられたのでしょうか」
「そうだ」
 あっさり答える陽子に、景麒は微かに眉を顰めた。
 楽俊。それは異界から連れてこられた陽子が、こちらの世界ではじめて得た友人の名だった。単に友人というにとどまらず、右も左もわからぬ世界で、追い回され、裏切られ、心身ともに傷ついた彼女を救ってくれた恩人であり、陽子の、彼に対する感謝の念が限りなく深いものであることは、景麒も知っている。景麒とて、不甲斐なくも己が敵の手に落ちている間、主を守り、扶けてくれたことに感謝はしているのだが。
「諸官にはどうご説明なさるおつもりです。官が皆、楽俊殿のことを知っているわけではありません。また、事情を知る者の中には、楽俊殿を妬む者もおりましょう」
 陽子と楽俊、二人の旅の間に何があったのか、それは景麒も詳しく聞いたわけではなく、楽俊とは、偽王討伐の後、しばらく身を寄せていた雁国の宮城で幾度か顔を合わせただけだったが、それでも彼の為人は窺うことができた。聡明で、誠実そうな。少なくとも、決して恩義を振りかざして王に取り入るような人物ではない、と思う。しかしそうは思わぬ者もいるだろう。王の寵を受けていると妬む者も。まして元号は国の大事、それに名を残すなど過ぎた恩寵と、不満が出ることは容易に想像がつく。
 そしてそれは、王への不信にも繋がる。私情で国を動かす女王、と。先王が、景麒に恋着するあまり道を失い、国を傾けたことは、まだ生々しく諸官の記憶に残っている。それだけに、特定の人物に執着するような素振りを見せればなおのこと、新王に対して強い反感を抱くだろう。
 そんな、自ら不信を招くような愚かな真似を、この王はしようと言うのか。
「そもそも元号とは、これから目指すべき国の姿を王自ら示し、国家の安寧と繁栄を願って名付けるものです。いくら恩人とは言え、一個人の名を冠するなど前例が――」
「…だからだ」
 苦い思いを押し殺しながら諭す景麒の言葉に応えたのはしかし、迷いのない声と、揺るがぬ決意を湛えた瞳だった。
「楽俊は、私がどんな国をつくるのか見てみたいと言ってくれた」
 この国の行く先を思うとき、胸にまず浮かぶのは、迷う陽子の背中を押してくれた、楽俊の言葉だ。
「この言葉を、私は忘れてはならないと思う。どんな国をつくるのか――この国をどんな国にしたいのか、…王として、私はそれを常に自分に問いかけなければならない」
 そのための戒めなのだと陽子は言って、それに、と続けた。
「苦楽の楽、なんだ」
「……は?」
「楽俊の楽は、苦楽の楽なんだそうだ」
 『苦楽の楽に、俊敏の俊』――そう言った彼の、ふっくりと和やかな笑顔を思い出して、陽子は表情を緩めた。
「巧国で半獣に生まれて、ずっと人より苦しい思いをしてきたはずなのに、楽俊はそう言って笑うんだ。…それって、すごく大事なことなんじゃないかな、って」
 陽子は自分の言葉を噛みしめるように、静かに語る。
「慶の民は、長い間苦しい思いをしてきたんだろう?だから、私が王になって、彼らの暮らしが少しでも楽になればいいと思う。人々が、生きることは決して苦しいことばかりじゃないと思えるような国にしたいと思う。たとえ国が豊かになっても、きっと苦しいことはあるよ。それでも楽しいことだってきっとある。そういう気持ちを忘れないで生きていける、そんな国になってほしいと思う」
 この世は善意だけでできているわけではないけれど、悪意だけでできているのでもない。そして、人の心もまた、辛い思いをするためだけにあるのではないのだから。
 それを忘れたら、苦しさに囚われて、大事なものを失くしてしまう――陽子自身がそうだった。苦しくて苦しくて、何も信じられなくなって。そんな自分が可哀想で、また苦しくなる。苦しいことしか、見えなくなる。
 そんな中で、陽子は楽俊に出会った。頑なに心を閉ざす陽子を、責めるでもなく助けてくれた楽俊。人に優しくするのも、人の優しさを受け止めるのも、すべては己の心次第なのだと気付かせてくれた。
 楽俊と初めて出会った時の光景は、今でもはっきりと思い出せる。夜明けの光に透けるような葉の緑と、それを叩く白い雨。きらきらと光る水滴。荒みきったはずの心で、綺麗だ、と思った。その時すでに陽子は救われていたのかもしれない。今振り返れば、その透明な情景は、楽俊の強さと優しさそのもののように陽子の心に染みてくる。
 あの光が、この国の人々の心にも射せばいいと、そう思う。
「だから、楽俊の名前を貰いたかった」
 陽子はまっすぐに景麒を見据えた。紅と翠の鮮やかな色彩が、目前の靄を打ち払ったように、景麒を捉えた。
 その眩しさに、景麒はああ、と眼を細めた。
 ――誰よりも、過去の記憶に縛られていたのは自分なのか。
 目を伏せた景麒の脳裏に、青白い女の顔が浮かぶ。ついに王たることのできなかった、彼にとって最初の王。それは縋るような目で、景麒を責める。
 けれど、これは幻だ。なぜ、彼女を選んだ。なぜ、支えきることができなかった。後悔と罪悪感と、また同じことを繰り返すのではないかという不安。そんな己の心が生んだ幻。ずっと、この幻に囚われていた。目の前の新たな王に向き合うことをせず、それはあるいは、ただ自分を哀れんでいただけなのかもしれない。
 景麒は顔を上げ、改めて主に向き直った。彼女から溢れる王気が誇らしかった。
「…では、赤楽、というのはいかがです」
「赤楽?」
「主上の字は『赤子』、赤子の治めるこの国が平らかであるように、この国の民が安らかであるように――そのような意味になりましょう。それならば諸官も否とは言いますまい」
「赤楽。赤楽か。うん」
 満足げに頷く陽子に、景麒ははい、と頷き返す。
 先王の遺した現在の元号を、予青といった。その記憶に囚われたまま、この国はいまだ苦しんでいる。けれど、この方ならば。
 景王赤子。この国を青の呪縛から解き放つ、赤の王。
 ――願わくは、貴女自身にも、平安が訪れますよう。
 祈るように、新たな時代の名を胸に刻み込み、景麒は恭しく頭を垂れた。
 

 

 

 


赤楽の由来。赤子の赤に楽俊の楽…お父さんとお母さんから一文字ずつもらいました、みたいな。
慶国は陽子と楽俊の子供か!(笑)
それはともかく。
元号に楽俊の名前を付けるのに、景麒が全く反対しなかったとは思えないんですよね〜。
陽子にしても、単に恩人だから、というんじゃなくて、それ以上の思うところがあったんだろうなと。
最初はただ、そのあたりの、陽子の楽俊への思い入れっぷり
(陽子はけっこう楽俊を理想化してそうな気がする)を書きたかったんですが、
景麒を絡めているうちに微妙に景麒→陽子→楽俊に。

 

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