◆卵果?

「卵果って、何で卵果って言うんだろう。」

…何言ってやがんだこいつ、って感じですが。
卵果――卵の果実。楽俊は陽子にそう説明しました。これは、非常にわかりやすい。
ただし、それはこちら(蓬莱)の人間にとっては、の話。
こちらでは、鳥やら爬虫類やら魚やら、種々の動物が、卵から孵ります。食用の無精卵なんかはともかく、基本的に「卵」の中には子供が入っている、というのが常識です。だから、子供の入った実を「卵果」というのはごく自然な気がするし、別段違和感はありません。
けれど、あちら(常世)では、根本の常識が違うはずです。「鶏の卵から雛が孵ったりはしないんだね」と言う陽子に、楽俊は「子供が入ってたら喰えないじゃないか」と答えています。あちらでは、「卵」からは子供は生まれないのです。
「蓬莱では子供は母親が産む」という陽子の説明に対し、楽俊が「鶏みたいに?」と言っているところからも、「卵」というもの自体は存在し、またそれは成熟した個体が「産む」ものであることがわかります。しかし、その生まれた「卵」は命と結びつくものではありません。「卵」と「子供」が結びつく下地となる常識がないのに、なぜ子供の入った木の実を「卵」果と言うのだろう…と、そう思ってしまったわけです。
楽俊が陽子に語って聞かせた常世の神話、その始まりはこうでした。

――大昔、天帝は九州四夷、併せて十三州を滅ぼし、五人の神と十二人の人とを残してすべてを卵に返したそうだ。――

「卵に返す」――これを単純に、卵(卵果)から生まれたものを、卵(卵果)の状態に戻した、という意味に受け取ることはできます。けれど、そうではないとしたら。
もしかしたら、これより以前の世界は、こちらと同様、母親が子を産み、卵から雛が孵る世界であり、新たな世界に創り変えるにあたって、すべての命を生まれる前の状態に戻すその際に、命あるものの始原の状態を端的に表すものとして、卵という形をとったと考えることもできるのではないでしょうか。
「卵」はその中に命を宿しているものという、前世界での常識。天帝がかの果実に「卵果」という名を与えたのは、その名残なのかもしれません。

 

<前次>